航空戦史雑想ノート【陸軍編】 -2ページ目

大陸令第十三号

ご訪問ありがとうございます。

業務多忙に為に、約二年間も未更新状態にあった当ブログですが、決して放置していた訳ではありません。

最近はブログに取り掛かる余裕ができましたので、航空戦史雑想ノート【海軍編 】ばかりではなく、こちら【陸軍編】も、今後は掲載や加筆を積極的に行っていこうと思います。


本日より、飛行第五四戦隊 の加筆を開始しました。

北方方面(北千島)の防空を一手に引き受け、大活躍した戦闘機隊です。

是非、ご一読下さい。

但し、筆者は陸軍航空に関しての史料や書籍を、海軍航空関連ほど所有していないので、いろいろとご教示をいただけると幸いです。


今後とも拙ブログを宜しくお願い致します。


飛行第七三戦隊

飛行第七三戦隊


【戦隊長】
 三隅 輝男 少佐 (航士51期)

【飛行隊長】
 梶原 広満 大尉 (航士54期)

【整備隊長】
 粟田 治郎 大尉 (54期)

【所属】
第二一飛行団
【飛行団長】
 吉岡 洋   中佐 (操23期・士37期)

 佐々木 光男准尉 (下士72期)
 佐藤 繁   曹長 (下士87期)


昭和19年5月16日付
明野陸軍飛行学校の担任により北伊勢(亀山)分教場で編成に着手。
操縦者は航士56期(のち57期)と特操が主体で、実戦経験者はほとんどいなく、戦力を発揮するまでには、相当の錬成が必要とみられた。
当初は機材が不足し、一式戦数機で訓練を開始した。

 

昭和19年7月頃
四式戦闘機「疾風」が到着しはじめ、操縦者もほぼ充足して七二戦隊とともに、第二一飛行団(長:吉岡 洋中佐)を構成した。

 

昭和19年8月
大正飛行場へ移駐。

 

昭和19年9月17日
編成を完結した時の保有機は、四式戦闘機「疾風」40機。

 

昭和19年10月
第一二飛行団の南方転用のあとを受けて、第二一飛行団が関東地区へ移駐することになったので、戦隊も飛行団司令部とともに所沢に移動、同地区の防空任務についた。

 

昭和19年11月1日
単機で偵察に飛来したF13偵察機(B29爆撃機の偵察機型)を迎撃したが、四式戦の高高度における上昇力が不足し、迎撃は不成功に終わった。

 

昭和19年11月21日付
第二一飛行団のフィリピン進出が発令された。

 

昭和19年11月24日
「関東地区B29爆撃機迎撃戦」
三隅戦隊長以下12機が出動したが戦果は無かった。

 

昭和19年12月4日
戦隊主力(約50機)は、李第1航空軍司令官を迎え、壮行式をあげ、七二戦隊と前後して所沢飛行場を出発したが、前進の途中に故障機が続出して、中隊ごとの区分前進となる。
台湾の台中飛行場で10余日整備と訓練を行う。

 

昭和19年12月16日
ルソン島マバラカット東飛行場に向かったが、2日前の七二戦隊の戦訓で進出途上の空戦に配慮して、搭乗員の荷物は機内に積まず、輸送機で別送することになった。しかし、またも故障機の続発で、到着したのは戦隊長以下9機にすぎず、翌17日、落伍した11機を末友吉高少尉(少候24期)が指揮して追及し、岡田公信中尉(航士56期)らの到着は22日となった。
また、整備隊主力は輸送機で逐次前進し、14日、九七式重爆撃機5機に分乗して台中を出発したが、クラーク着陸寸前に敵戦闘機に攻撃され、3機が墜落、粟田整備隊長以下の幹部を一挙に失った。

 

昭和19年12月17日
「ミンドロ島攻撃」
朝 七三戦隊[四式戦9機]が七二戦隊と合同で、ミンドロ攻撃隊の直掩に出動した会敵せず、帰還したが七三戦隊の篠田悌治軍曹機に搭乗して出撃した吉岡飛行団長は未帰還となった。
【21FB被害】
不明
【戦死者】
21FB 吉岡 洋  中佐  (操23期・士37期) *クラーク
72FR 若狭 繁夫 中尉 (操92期・士56期) *ミンドロ沖
72FR 佐藤 通  少尉  (特操1期)      *ミンドロ沖
72FR 刀根 四郎 伍長 (少飛13期)     *ミンドロ沖
73FR 篠田 悌治 軍曹

 

昭和19年12月18日
第二一飛行団は、四式戦約40機をクラーク基地群のバンバンとマバラカット東飛行場に集中した。

 

同日
「ミンドロ島サンホセ攻撃/特攻直掩」
ロッキードP38「ライトニング」双発戦闘機と交戦。
【73FR被害】
損失:四式戦2機
【戦死者】
73FR 白井 太喜男少尉 (航士57期)     *ミンドロ沖
73FR 太田代 安見軍曹 (少飛13期)     *ミンドロ沖

 

昭和19年12月20日
「ミンドロ島攻撃」
【21FB被害】
不明
【戦死者】
72FR 新谷 肇  少尉  (下士84期)     *ミンドロ沖
72FR 大西 孝  伍長  (少飛12期)     *ミンドロ沖
73FR 中原 春次 軍曹 (少飛10期)     *リパ 着陸事故

 

昭和19年12月22日
「ミンドロ島サンホセ沖艦船攻撃」
四式戦12機でP38/リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機群と交戦。
【73FR戦果】
不明
【個人戦果】
三隅 輝男 少佐(航士51期)     *撃墜・2機
梶原 広満 大尉(航士54期)     *撃墜・2機
【73FR被害】
不明
【戦死者】
73FR 田中 光一 中尉 (航士56期)     *ミンドロ沖
73FR 増住 弘之 少尉 (航士57期)     *ミンドロ沖

 

昭和19年12月24日
「クラーク地区迎撃」
レイテを発進した戦爆連合を迎撃。空戦は圧倒的多数の米側優勢に終わった。
【73FR被害】
不明
【戦死者】
73FR 神吉 吉弘 大尉 (航士55期)     *クラーク
73FR 松本 茂夫 少尉 (特操1期)      *クラーク

 

昭和19年12月25日
「クラーク地区迎撃」
【73FR被害】
不明
【戦死者】
73FR 富岡 喜久雄少尉 (特操1期)      *クラーク
73FR 中島 透  少尉  (特操1期)      *クラーク

 

昭和19年12月28日以降
可動機が少なくなったので、昼間はサンフェルナンド泊地の上空哨戒にあたり、夜間は少数機でサンホセ飛行場のタ弾攻撃を実施した。

 

昭和20年1月5日
第三〇戦闘飛行集団長の命令で、戦闘機隊は全機特攻作戦に移行した。
第一、一一、七一~七三、二〇〇戦隊の四式戦装備隊は混成で「精華隊」を編成し、1月12日まで、リンガエン湾に上陸した船団を目標に、2機ずつの編隊を組み(うち1機は戦果確認機)、250キロ爆弾2個を翼下に装備し出撃した。

 

同日
「ルソン西方海上特攻攻撃/直掩」
三隅戦隊長、梶原飛行隊長ら四式戦4機が出撃。グラマンF6F戦闘機と交戦。
【73FR被害】
損失:四式戦3機
【戦死者】3名
73FR 梶原 広満 大尉 (航士54期)     *ルソン西方
73FR 荒井 幸雄 伍長 (少飛13期)     *ルソン西方
ほか1名

 

昭和20年1月7日
「ルソン西方海上特攻攻撃/直掩」
四式戦2機が出撃。
【73FR被害】
損失・四式戦1機
【戦死者】1名
73FR 川原 安民 少尉 (航士57期)     *ルソン西方

 

昭和20年1月8日
「ルソン西方海上特攻攻撃/直掩」
三隅戦隊長以下四式戦4機が出撃。三隅戦隊長はグラマンF6F戦闘機1機撃墜後、行方不明となり、矢野 寛曹長(下士89期)のみ生還。
【73FR戦果】

【個人戦果】
三隅 輝男 少佐(航士51期)     *撃墜・グラマンF6F戦闘機 1機
【73FR被害】
損失・四式戦3機
【戦死者】3名
73FR 三隅 輝男 少佐 (航士51期)     *ルソン西方
   ほか2名

 

昭和20年1月10日
岡田中尉以下の生存操縦者6名と、2機の可動機はバンバンに移動して。津崎七二戦隊長の指揮下に入った。

 

昭和20年1月11日

 

昭和20年1月15日
【73FR被害】
【戦死者】
73FR 島本 準彦 少尉 (特操1期)      *ルソン島
73FR 五島 司   少尉 (特操1期)      *ルソン島


【フィリピン戦における個人撃墜】[筆者注:調査未完]
三隅 輝男 少佐(航士51期)*撃墜:3機[P38/47:2、F6F:1]
梶原 広満 大尉(航士54期)*撃墜:2機[P38/47]


*未完稿




【参考文献】

テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。 

 

筆者注:調査未完のため、今後、大幅に加筆・改訂を予定しております。 

 

初稿  2007-10-10


飛行第七二戦隊

飛行第七二戦隊 


【通称】

威 第一八四三〇

【戦隊長】
 津崎 栄介 大尉 (航士51期)
【飛行隊長】
 井上 恒夫 大尉 (航士52期)

 戸田 公   大尉 (航士55期) 
 若狭 繁夫 中尉 (操92期・士56期)
 石井 良之 中尉 (操92期・士56期) 
 本行 邦彦 中尉 (航士56期)
 古川 孝   少尉 (航士57期)     
 大越 信幸 少尉 (航士57期)     
 高垣 春雄 少尉 (少飛4期)     ※総撃墜数:17機以上
 
 高橋 一雄 少尉 (特操1期)      
 笠原 史雄 少尉 (特操1期)      
 佐藤 通  少尉  (特操1期)
 新谷 肇  少尉  (下士84期)     
 松川 治雄 軍曹 (少飛10期)           
 増田 与一 軍曹 (少飛10期)     
 久保 実  軍曹  (下士90期)     
 出口 敏治 軍曹 (下士93期)     
 大西 孝  伍長  (少飛12期)
 薄葉 公弘 伍長 (少飛12期)
 刀根 四郎 伍長 (少飛13期)

【整備隊長】
 葛口 卓  大尉  (54期)


【所属】
 第二一飛行団
【飛行団長】
 吉岡 洋  中佐  (操23期・士37期)

 

 佐々木 光男准尉 (下士72期)
 佐藤 繁  曹長  (下士87期)


 

昭和19年5月20日
飛行第七一/七三戦隊とともに明野陸軍飛行学校・北伊勢(亀山)分教場で編成され、第二一飛行団(団長:吉岡 洋中佐)を構成した4式戦闘機装備部隊。


編成完結と同時に、大阪府伊丹飛行場に展開、阪神地区の防空任務に就きながら、訓練に入るが、少数の熟練者を除くと、操縦者の主力は特操1期生で、戦力化にはかなりの時日が必要と考えられた。


昭和19年8月20日
相模に移動、京浜地区防空につく。

第二一飛行団はフィリピン方面に派遣される最後の戦闘飛行団として内定(大陸令による発令は11月21日)。

 

昭和19年10月末
所沢に移動。

 

昭和19年12月3日
第七三戦隊と前後して、津崎戦隊長以下、四式戦闘機「疾風」30数機で出発。台中で飛行団の主力が集中して訓練と整備を行ったのち、七二戦隊は12月14日以降、ルソン島バンバン基地へ進出した。

 

昭和十九年12月14日
吉岡二一飛行団長と七二戦隊主力が台中からバンバン基地に向かったが、リンガエン湾付近で多数のグラマンF6F戦闘機群に奇襲され、乱戦の中で3機を撃墜したが、練度不足の戦隊は四分五裂となり、バンバン基地に到着したのは7機のみで、約半数が行方不明となった。
【72FR戦果】
撃墜:グラマンF6F戦闘機3機
【72FR被害】
未帰還:4式戦闘機9機以上 
【戦死者】
72FR 戸田 公   大尉 (航士55期)     *リンガエン湾
72FR 古川 孝   少尉 (航士57期)     *リンガエン湾
72FR 大越 信幸 少尉 (航士57期)     *リンガエン湾
72FR 高橋 一雄 少尉 (特操1期)      *リンガエン湾
72FR 笠原 史雄 少尉 (特操1期)      *リンガエン湾
72FR 増田 与一 軍曹 (少飛10期)     *リンガエン湾
72FR 久保 実   軍曹 (下士90期)     *リンガエン湾
72FR 出口 敏治 軍曹 (下士93期)     *ミンドロ沖
72FR 薄葉 公弘 伍長 (少飛12期)     *リンガエン湾

 

昭和19年12月15日
ミンドロ島サンホセ攻撃のため出撃を準備しが、可動機4機のみとなり中止された。

 

昭和19年12月16日  
【21FB被害】
【戦死者】
72FR 石井 良之 中尉 (操92期・士56期) *ルソン島
72FR 本行 邦彦 中尉 (航士56期)     *ルソン島
21FB 佐藤 繁   曹長 (下士87期)     *クラーク

 

昭和19年12月17日
「ミンドロ島攻撃」
朝 七三戦隊(四式戦9機)が七二戦隊と合同で、ミンドロ攻撃隊の直掩に出動した会敵せず、帰還したが七三戦隊の篠田悌治軍曹機に搭乗して出撃した吉岡飛行団長は未帰還となった。
【21FB被害】
【戦死者】
21FB 吉岡 洋   中佐 (操23期・士37期) *クラーク

72FR 若狭 繁夫 中尉 (操92期・士56期) *ミンドロ沖
72FR 佐藤 通   少尉 (特操1期)      *ミンドロ沖
72FR 刀根 四郎 伍長 (少飛13期)     *ミンドロ沖
73FR 篠田 悌治 軍曹


昭和19年12月18日
第二一飛行団は、四式戦約40機をクラーク基地群のバンバンとマバラカット東飛行場に集中した。


昭和19年12月20日
「ミンドロ島攻撃」
【21FB被害】
【戦死者】
72FR 新谷 肇   少尉 (下士84期)     *ミンドロ沖
72FR 大西 孝   伍長 (少飛12期)     *ミンドロ沖
73FR 中原 春次 軍曹 (少飛10期)     *リパ 着陸事故

 

昭和19年12月下旬
数次のミンドロ進攻作戦で損耗を重ねた。


昭和20年1月5日
第三〇戦闘飛行集団長の命令で、戦闘機隊は全機特攻作戦に移行した。
第一、一一、七一~七三、二〇〇戦隊の四式戦装備隊は混成で「精華隊」を編成し、 1月12日まで、リンガエン湾に上陸した船団を目標に、2機ずつの編隊を組み(うち1機は戦果確認機)、250キロ爆弾2個を翼下に装備し出撃した。


昭和20年1月12日
戦隊は可動0機となる。
同日夜 青木三〇集団長以下残存した飛行隊員の大部は、マバラカット基地より自動車悌団で、北部ルソンのエチャゲへ後退を開始した。
井上飛行隊長が指揮する第二一飛行団は、23日に到着した。


昭和20年1月13日
朝 双発高錬でマバラカットを出発した津崎戦隊長と高橋二〇〇戦隊長らは、行方不明となり、米陸軍のP47戦闘機に撃墜されたものと推定された。
【戦死】
200FR 高橋 武   中佐 (操28期・士38期) *ルソン島
72FR 津崎 栄介  少佐 (航士51期)     *ルソン島
21FB 佐々木 光男准尉 (下士72期)      *ルソン島
200FR 西  哲雄  中尉 (少飛2期)      *ルソン島


エチャゲに脱出した井上隊は、1月末ルソン島北端のカサンバラカンに到着、救援の潜水艦を待ったが到着せず、ツゲガラオに戻り、操縦者の主力は 2月末爆撃機で台湾へ脱出した。

第二一飛行団は幹部の多数を失い、再建は困難と判定され、1月15日付で第一航空軍に編入され、台湾にあった16機の四式戦と生還者は他部隊に転出し、解散した。


なお、ルソン島に残留した地上要員(約80名)は、4月に臨時歩兵第二五大隊に編入さ
れてゲリラ戦を続行し、多数の戦死者を出したのち、敗戦を迎えた。 

 

*未完稿




【参考文献】

テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。 

 

筆者注:調査未完のため、今後、大幅に加筆・改訂を予定しております。 

 

初稿  2007-10-08