航空戦史雑想ノート【陸軍編】 -22ページ目

インパール作戦【ウ号作戦】

インパール作戦【ウ号作戦】


*航空戦
インパール作戦中の航空作戦および各部隊の作戦行動について、連合国空軍の動きも含めて調査する予定ですが、現状では調査未完のためアウトラインのみです。

第五飛行師団【高兵団】〔司令部:ラングーン〕

【所属】

第三航空軍【司兵団】〔司令部:シンガポール〕

【師団長】

 田副 登  中将(陸士26期)

【参謀長】  

 鈴木 京  大佐(陸士35期)


【師団編成】

師団司令部
第四飛行団
 飛行第五〇戦隊(戦闘)
 飛行第八戦隊(司偵、軽爆)
第七飛行団
 飛行第六四戦隊(戦闘)
 飛行第一二戦隊(重爆)

 飛行第六二戦隊(重爆)
 飛行第八一戦隊(司偵)

第一航空地区司令部

第七航空地区司令部

第一五航空地区司令部
 第八二飛行場大隊
 第一五飛行場大隊

 第一七飛行場大隊

 第一九飛行場大隊
 第二三飛行場大隊
 第二七飛行場大隊
 第五二飛行場大隊
 第九二飛行場大隊

 第九四飛行場大隊

航空通信第一聯隊
第一六航空情報隊
第一七航測隊
第四野戦飛行場設定隊
第七野戦飛行場設定隊
第八野戦飛行場設定隊
高射砲第二〇聯隊
野戦高射砲第三三大隊

野戦高射砲第三六大隊



昭和19年3月1日

五飛師司令部は、中部ビルマ東側のシャン高原カロウに前進した。

その後、中部ビルマのシュウェポに前進。 


昭和19年3月5日

「シルチャール攻撃」

九九式軽爆9機〔8FR〕、一式戦30機〔50/64FR〕が、シュウェポ飛行場を発進。

インド・アッサム州シルチャール飛行場攻撃に向かう。

飛行場進入前に戦闘機による邀撃を受け、攻撃は失敗した。

シュウェポ帰還後、すぐに連合軍の戦闘機隊の奇襲を受け、戦爆10数機は炎上した。 

【戦果】

不明

【被害】

不明


同日

中部ビルマの飛行場〔マグウェ、メイティラ、メイミョウ、へホ等〕が、連合軍の大規模な空襲を受けた。

空挺部隊降下の陽動作戦。

午後8時、インド・アッサム州ハイラカンディ飛行場を発進したのは、大型グライダーCG‐4「ハドリアン」2機を曳航したダグラスC‐47「スカイトレーン」輸送機61機。北ビルマ、マンダレーとミッチナの中間にあるカーサ付近に飛来。その内35機がカータ南方20キロの林間にグライダーを降下させた。別の一隊はカータ東北方80キロ地点に空挺部隊を降下させた。翌6日も引き続き大規模な武器弾薬、燃料、食料、機材を輸送した。 


昭和19年3月6日

五飛師司令部はカロウに帰還。

 

同日

62FRの重爆は前進途上のマウビで、ボーファイターの銃撃により1機が炎上した。(同日夜の可動機15機) 


昭和19年3月7日

戦闘機がカーサ付近の敵空挺部隊拠点を攻撃した。

昭和19年3月8日

師団はシュウェポにある3個飛行場に戦闘機50/64FRと重爆62FRを終結させる計画であったが、62FRが誤って他飛行場に着陸、指揮が混乱し攻撃は中止となる。

[筆者注:62FRは浜松で百式重爆「呑龍」Ⅰ型に機種改編し、2月24日にビルマ・スンゲイパタニに到着したばかりであった]

1700頃 62FRは指定されたシュウェポ中飛行場へ到着したところを、英空軍第一航空コマンド航空群のP‐51A戦闘機に襲撃された。

【被害】

炎上:百式重爆6機、一式戦5機 

  

同日

「レド夜間攻撃」

昼間爆撃が中止となったため、12FRの野本少佐以下九七式重爆3機が離陸。しかし、集合ができず、野本機のみがレドに対して推測爆撃をおこなった。 


昭和19年3月9日

62FRはマウビに帰還する際、離陸事故で1機を喪失した。(可動機8機となる)

 

同日

ビルマ北部のカーサ南方にグライダーが降下した。 

  

62FRはスンゲイパタニに戻り、百式重爆は昼間攻撃隊とし、97式重爆を使用する夜間攻撃隊を大下勉大尉(52期)を長として編成した。 


昭和19年3月10日

偵察によりカーサ付近に飛行場3ヶ所が作られ、うち2ヶ所にはすでに戦闘機の在地が確認された。 


昭和19年3月12日

「シルチャール攻撃」
【兵力】
一式戦闘機:60機[50/64/204FR]
【戦果】
撃墜:16機
【被害】
損失:1機

【戦死者】

石山繁雄  伍長 (少飛10期) 64FR  ビルマ


昭和19年3月13日

62FRの夜間攻撃隊はトングーに前進した。(~18日までインパールに対して夜間攻撃隊延べ10機が出撃し、2機が未帰還となる)


昭和19年3月15日

夜間 一式戦約60機〔50/64/204FR〕で、インパール攻略に向かう第一五軍の第一五、三一師団のチンドウィン川渡河の上空を交代で護衛。
 

昭和19年3月27日
「レド攻撃」
当日、目標上空は厚い雲に覆われ、ゆっくりと2回爆撃進入を行ったが、目標が確認できなかった。雲下より目標を捕捉しようと高度を下げ3度めの進入をはかったところを、上空よりレーダー誘導の米第10航空軍のP‐40/P‐51戦闘機85機(うち交戦したのは23機で重爆11機撃墜を報じている)が攻撃してきたが、帰還するための燃料がぎりぎりの一式戦は苦戦した。

62FR重爆は爆弾を投棄し離脱を図ったが、第三編隊長の大野明中尉機が機上戦死3名を出し、友軍戦線内に不時着したのみで、全機を喪失。戦隊長、中隊長2名以下70名が戦死した。

【兵力】
一式戦闘機:60機[50/64/204FR]
百式重爆撃機:9機[62FR]
【戦果】
撃墜:15機
《相手側記録/被墜2機》
【被害】
損失:一式戦闘機:4機 百式重爆撃機:8機
《相手側記録/撃墜:24機》

【戦死者】

上口十三雄 伍長 (少飛10期) 64FR  ミートキーナ 

橋口虎雄  伍長 (少飛10期) 64FR  ミートキーナ

ほか50FR:2名

 

第五飛行師団の3月の損失は60機に達した。 


昭和19年4月3日

「インパール市街地夜間攻撃」

62FRの九七式重爆4機が出撃。上領次郎大尉(54期)機、飯田通郎中尉(55期)機が未帰還。

 

昭和19年4月4日

「インパール市街地夜間攻撃」

12FRの九七式重爆5機が出撃。天候不良のため攻撃は不成功に終わった。山口文治大尉(54期)機が未帰還。


昭和19年4月8日

「インパール北飛行場攻撃」

夜 62FRの九七式重爆3機が出撃。


昭和19年4月9日

「インパール北飛行場攻撃」

早朝 12FRの九七式重爆が出撃。

 

昭和19年4月17日

「インパール攻撃」
12FRの重爆6機が、戦闘機の援護を受け、パレル飛行場を攻撃。 

【兵力】
一式戦闘機:50機
爆撃機:6機
【戦果】
撃墜:6機
【被害】
損失:一式戦闘機3機

 

同日

「インパール夜間攻撃」

夜 62FRの九七式重爆4機が出撃。パレル飛行場を攻撃
 

昭和19年4月24日

「インパール夜間攻撃」

重爆数機

 

昭和19年4月25日

「インパール夜間攻撃」

重爆数機

 

昭和19年4月26日

「インパール夜間攻撃」

重爆数機

 

昭和19年4月27日

「インパール夜間攻撃」

重爆数機

 

*4月も天候が悪かったが、5月に入り本格的な雨季に入った。

 

昭和19年5月9日

「インパール夜間攻撃」

夜 62FRの九七式重爆3機が出撃。 

 

昭和19年5月10日

「インパール攻撃」

早朝 12FRの九七式重爆が出撃。昨夜と同目標を攻撃。 

  

昭和19年5月11日

「インパール攻撃」

早朝 62FRの4機が、インパールとポリバザーに向かったが、悪天候にため攻撃は不徹底に終わる。  


同日 

「メイクテーラ迎撃」
【兵力】
?機[64/204FR(87FRを含む?)]
【戦果】
撃墜:7機[うち不確実4機]
【被害】
損失:3機


昭和19年5月15日

「コヒマ攻撃」

一式戦25機〔50/64FR〕が、30キロ爆弾2発を搭載し、コヒマの戦車や野砲陣地を爆撃。

 

昭和19年5月17日

「サドッズップ西飛行場攻撃」

62FRの大下 勉大尉(52期)指揮の重爆5機が出撃。これが最後のインパール正面攻撃となった。

1機が未帰還となる。 

 

 

 

昭和19年6月

第五飛行師団の航空兵力:合計81機(輸送機は0)

第一五軍は動員10万人、戦死3万人、負傷2万人、他に3万人が病気と餓死寸前となり自滅した。

 


 

【参考文献】

テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。

[筆者注:今後大幅に加筆、改訂を予定しております]

 

初稿  2005-04-29

第2稿 2005-07-15 一部加筆

第3稿 2005-07-27 重爆戦隊部分を加筆

第4稿 2005-09-06 師団編成部分を加筆




飛行第二四八戦隊

飛行第二四八戦隊 

 

【通称】

洋第一五三八九

【分科】

戦闘

【編成】

昭和17年8月10日

飛行第四戦隊を母体に福岡県雁の巣飛行場にて

【編成地】

小月〔山口県〕

【装備機種】

九七式戦闘機:定数33機/充足25機〔開隊時〕

一式戦闘機

【敗戦時所在地】

昭和19年8月20日、西部ニューギニア・ホーランジアで現地復帰(解散)

【所属】

第一九飛行団〔編成完結後に編入〕 

第四航空軍・第六飛行師団


【戦隊長】

牧野靖雄  少佐 (39期)     17年8月~18年10月

村岡信一  少佐 (43期)     18年10月~19年1月  *東部ニューギニア・グンビ進攻で戦死

黒田武文  少佐 (45期)     19年1月~19年7月

【第一中隊長】

酒谷三郎  大尉 (18期少)    17年8月~18年7月

香月 豊   大尉 (53期)     18年7月~19年6月 

【第二中隊長】

徳永信雄  大尉 (51期)     17年8月~18年2月

戸塚信義  中尉 (53期)     18年2月~19年1月

猪鹿倉兼次 中尉 (54期)     19年2月~19年4月

【第三中隊長】

太田英夫  中尉 (53期)     17年12月~18年11月

小島繁男  大尉 (53期)     18年11月~19年1月

川村武紀  中尉 (54期)     19年2月~19年7月


 

【戦歴】

当初は九七式戦闘機2個中隊定数33機、充足25機で、第一中隊は芦屋、第二中隊は雁の巣に配置。


昭和17年12月

第三中隊が編成、同時に戦隊は九七式戦闘機より一式戦闘機Ⅰ型への機種改編を進めたが、当時は熟練者、実戦経験者は少数で、少飛10期を中心とした。


昭和18年7月末

一式戦闘機Ⅰ型から一式戦闘機Ⅱ型に機種改編を行う。


昭和18年10月9日

大陸命により、第四航空軍に編入。


昭和18年10月20日

戦隊長の村岡少佐以下34機は芦屋を出発。

台湾・屏東、フィリピン・マニラ、ダバオ、ホーランジアを経由して。30日に30機(操縦者34名)が東部ニューギニアのウエワクに進出。第六飛行師団の隷下に入る。

この時点での実戦経験者は村岡少佐、浅野 等中尉(少候20期)等の少数であったが、技量甲は25名いた。 

地上勤務者の一部〔28名〕は本部と同時に、輸送機によりウエワクに進出した。


昭和18年10月30日

ニューギニアへ向かう地上勤務者の主力〔201名〕が便乗した「でらごあ丸」は、呉を出港。

昭和18年11月2日

「でらごあ丸」は、佐伯湾南方の土佐沖で潜水艦の雷撃を受け沈没し、生存者5名のみで全滅。

〔戦隊の整備は他隊により受けることとなったが、後に五九戦隊の転出の際、その整備員を受け入れた〕

 

昭和18年11月6日

「マザブ飛行場攻撃」

一式戦30機で出撃。

13/59/78FRと協同で重爆隊を援護、マザブ飛行場への初出撃を行う。

【総合戦果】

撃墜:2機

【被害】

不明

【戦死者】

太田英夫  中尉 (53期)    未帰還【第三中隊長】

 

昭和18年11月7日 

「マザブ飛行場攻撃」

 

昭和18年11月9日 

「マザブ飛行場攻撃」

 

昭和18年11月10日

戦隊の可動機:一式戦14機

 

昭和18年11月15日

「マラワサ進攻」


昭和18年11月19日~下旬

フィッシュハーフェン進攻、ウエワク防空を行う。

 

昭和18年11月20日

戦隊の可動機:一式戦10機


昭和18年11月30日

戦隊の可動機:一式戦7機 


昭和18年11月末まで

操縦者の損失:13名

 

昭和18年12月

帆鷲中尉等15名の操縦者が補充される。 


昭和18年12月5~7日

「ホーランジア船団掩護」


昭和18年12月12日

「マラワサ攻撃」


昭和18年12月16~21日

「マーカス岬上陸艦船攻撃」 


昭和19年1月2日

「グンピ岬進攻」

【戦死者】  

村岡信一  少佐 (43期)

 

昭和19年1月21日

後任戦隊長の黒田少佐が着任。

戦隊の可動機数:一式戦10数機。 

 

昭和19年1月末頃

将校が皆無となる。

戦隊の可動機数:一式戦10機。

 

昭和19年2月

単機でラム河谷への夜間攻撃を実施。


昭和19年2月下旬~3月

中隊長級将校と航士56期が数名、下士官7~8名が内地より補充され、他隊よりの転入者と一緒に、後方のホーランジアに後退し練成を行い、進攻の際にウエワクを前進基地とした。 


昭和19年4月6日現在

操縦者:28名

保有:一式戦5機 

可動:一式戦3機


昭和19年4月22日

大空襲で全機地上で喪失。


米軍がホーランジアに上陸。


戦隊は戦隊長以下大部分が徒歩でサルミに後退。途中の難航軍で大半は次々と倒れた。

大発便乗者も魚雷艇との交戦で過半が戦死した。

 

一部が残留していたウエワクの地上勤務者も、アイタぺへ後退中に米軍上陸に遭遇、山中のジャングルに避退。

  

昭和19年7月25日付

第六飛行師団と二四八戦隊は現地復帰(解散)を命じられた。

 

昭和19年9月30日

イドレにたどり着いた操縦者は黒田少佐、宮崎乙吉少尉(少候23期)、小川松太郎准尉等3~4名だけだった。〔20年初めに内地へ帰還〕


二四八戦隊の敗戦後の内地帰還者は約20名。 


飛行第二四八戦隊〔全期間を通じて〕

戦果:撃墜・破 97機

被害:操縦者戦死(空中)24名

 



*未完稿

初稿  2005-07-22


第六飛行師団【洋兵団】

[まだ、構想段階で調査未完のため、不十分な記事で読みがたい部分もありますが、逐次、加筆・改訂していく予定ですのでよろしくお願いします]

第六飛行師団

 

【編成】

昭和17年11月28日

【編成地】

東京

【復帰】

昭和19年8月31日、復帰(廃止)


【師団長】

板花義一中将 (陸士22期)

【隷下部隊】

第一二飛行団〔ラバウル西飛行場(ブナカナウ)〕

 飛行団司令部    〔定数:人員65名/自動車8台〕 

 飛行第一戦隊    〔定数:一式戦闘機「隼」:37機 人員266名/自動車5台〕

 飛行第一一戦隊  〔定数:一式戦闘機「隼」:37機 人員266名/自動車5台〕

白城子教導飛行団

 飛行第四五戦隊  〔定数:九九式双発軽爆撃機:27機 人員464人〕

 飛行第二〇八船隊 〔定数:九九式双発軽爆撃機:27機 人員464人〕

独立飛行第七六中隊〔定数:一〇〇式司令部偵察機:9機〕

飛行場大隊(4個)  〔定数:人員712名、車両66台(1個大隊)〕

 第四八飛行場大隊 〔定数:人員:約300名/トラック40台〕

野戦飛行場設定隊〔5個〕

航空通信連隊

第一四野戦航空補給廠 



【経過】

昭和17年9月

大本営陸軍部は、ビスマルク諸島ニューブリテン島ラバウル所在の第一七軍〔沖兵団〕の直属として独立飛行第六七中隊を派遣することを下令した。[中隊のラバウル到着は10月下旬で、海軍の東飛行場(ラクナイ飛行場)に展開した] 

 

昭和17年11月

第六飛行師団が編成される。

昭和17年11月下旬

大本営陸軍部は、第一二飛行団に転進命令を下達。

飛行団司令部と飛行第一一戦隊が先行することになり、16~19日に逐次シンガポールに集合、12月初旬にスラバヤに移動。


昭和17年12月5日

海軍の護送空母「雲鷹」に移乗しトラックに向かう。

飛行第一一戦隊は定数37機のほか、予備機24機、操縦者61名(うち技量甲47名)

昭和17年12月11日

海軍の改装空母「竜鳳」が、飛行第四五戦隊の九九式双発軽爆撃機22機と付属部隊を搭載し、横須賀を出港した。
     

昭和17年12月12日

「竜鳳」が、八丈島付近で米潜水艦「ドラム」の雷撃を受け損傷、引き返したため輸送は中止となる。

昭和17年12月13日

「雲鷹」は、無事トラック着。


昭和17年12月18日

一式戦64機[筆者注:飛行団司令部も含まれると思われる]が海軍の一式陸攻9機に誘導され洋上飛行を行い、無事ラバウル西飛行場に到着した。

到着直後より海軍と協同し、ラバウルの防空についた。


昭和17年12月22日

「ラバウル迎撃/11FR」

偵察任務のボーイングB‐17「フライングフォートレス」四発重爆撃機を一式戦3機で迎撃したが、撃墜できなかった。


昭和17年12月23日

「ラバウル迎撃/11FR」 

前日と同様に一式戦9機で迎撃したが、今回も撃墜できなかった。


昭和17年12月26日

「ブナ攻撃/11FR」

宮林大尉以下15機がブナに進攻、カーチスP‐40「ウォホーク」戦闘機と初空戦を行い、6機を撃墜。

【戦死者】

今村良一  曹長 (下士79期) 11FR  ブナ沖

藤井弘一  曹長 (下士82期) 11FR  ブナ沖 


昭和17年12月27日

「ブナ攻撃/11FR」

谷口少佐以下31機で、海軍と協同でブナに進攻。初めてロッキードP‐38「ライトニング」双発双胴戦闘機と空戦。7機を撃墜した。

【戦死者】

吉竹 正  准尉 (少飛2期)  11FR  ブナ沖


昭和17年12月下旬

飛行第一戦隊がシンガポールより空母に便乗しトラックへ向かう。

飛行第一戦隊は定数37機のほか、予備機24機、操縦者49名(うち技量甲34名)

昭和17年12月29日

飛行第一四戦隊〔九七式重爆撃機Ⅱ型装備〕に対しラバウル派遣が下令された。

11FRはシンガポール・テンガー飛行場に移動、98FRより11機を受領し、機材の整備や武装の改修を行う。

昭和18年1月4日

飛行第一戦隊がトラックに到着


昭和18年1月5日

「ラバウル迎撃/11FR」

B‐17爆撃機2機を撃墜[一式戦によるB‐17爆撃機の初撃墜]


昭和18年1月5日~10日

「十八号作戦上空掩護」

第八方面軍によるラエに対する船団輸送の上空掩護を海軍と協同で行う。その際にラエ、ニューブリテン島のスルミ飛行場を利用した。

5日のラバウル出航から、10日の帰港までを延べ283機で掩護に当たった。

【交戦機数】

約160機(B‐17/B‐24/P‐38/A‐20等)

【戦果】

撃墜:15(うち不確実13)機

【被害】

自爆・未帰還:6機

大破・炎上:10機

操縦者戦死:7名

【戦死者】

長与 寿  少尉 (航士55期) 11FR  ラバウル 1月5日

佐々木隆義軍曹 (予下士)   11FR  ラバウル 1月6日

平野博篤  中尉 (航士52期) 11FR  ラエ沖   1月7日

中川隆雄  中尉 (特志)     11FR  ラエ沖   1月7日

綿貫 清  曹長 (下士77期) 11FR  ラエ沖   1月7日

甲斐保一  伍長 (少飛7期)  11FR  ラエ沖   1月7日

栗原健次郎曹長 (下士82期) 11FR  ラエ沖   1月8日

操縦者負傷:3名

沈没:輸送船2隻


昭和18年1月9日

飛行第一戦隊の第一陣の一式戦33機がラバウルに進出した。


同日

飛行第一一戦隊の出撃可能機数は15機。



昭和18年1月下旬

第六師団のブーゲンビル島輸送援護のため第一二飛行団長は飛行第一戦隊(36機)を率いて、バラレ島に進出した。

同時期に飛行第45戦隊の6機が、バラレ基地に進出した。

 

昭和18年1月26日

ガダルカナル撤退作戦の掩護のため飛行第一一戦隊はブカ島に33機で進出した。

昭和18年1月27日

「ガダルカナル島攻撃」

1FR/11FRで軽爆隊(45FR)を援護し、ガダルカナル島へ進攻した。


昭和18年2月1日

「ガダルカナル島攻撃」

45FR:九九式双軽6機、11FR:一式戦23機で、ガダルカナル島攻撃。

九九式双軽はヘンダーソン飛行場に対して急降下爆撃を行う。


昭和18年1月27日~2月8日(12日間)の第六飛行師団の損害

一式戦闘機「隼」    18機

九九式双発軽爆撃機 10機

一〇〇式司令部偵察機 1機


昭和18年2月3日

飛行第一四戦隊は、ジャワ島マラン飛行場に進出。

ニューギニア北部のバボ、ウエワク飛行場の概成まで待機。

昭和18年2月24日

飛行第一四戦隊はマランを出発。

ケンダリー、バボ、ウエワクを経由。

昭和18年3月2日

飛行第一四戦隊36機(全機)が、無事、ラバウル南(ココポ)飛行場に到着。

 

昭和18年

第一二飛行団と交代のため、第一四飛行団〔飛行第六八戦隊、飛行第七八戦隊〕がラバウルに派遣されることになった。


昭和18年4月

飛行第六八戦隊がラバウルに到着。

三式戦27機のうち13機が不時着または行方不明となった。


昭和18年4月30日

第六飛行師団は、司令部をラバウルからニューギニア東北岸のウエワクに移動した。



独立飛行第八三中隊〔九九式軍偵察機12機(18年5月より)〕編入。


昭和18年8月12日付

第一四飛行団が、第四航空軍司令部の直属となり、第七飛行師団の指揮下に入った。 



*飛行第二四八戦隊は別稿あり。


初稿  2005-05-12

第2稿 2005-05-18 一部加筆

第3稿 2005-05-20 一部加筆

第4稿 2005-06-14 一部加筆

第5稿 2006-03-11 一部加筆